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震災から1年以上経って、被災地がどのような状態となっているか、三陸を旅する中で写真に撮りためた。下の写真は気仙沼にて撮ったもの。
昨年3月の震災後、その年の5月に被災地を訪れてボランティアをおこなった。その時は遠野まごころネットを通じて陸前高田市と大槌町を訪れたがあまりの惨状にショックを受けた。バスの中から支障がないと判断できたところだけ撮ったので少ししか写真はないけどこんな感じだった。
震災2カ月後の陸前高田
陸前高田では魚加工場が全壊しサンマ等が近くの集落に散乱し異臭を放つ状況になっており、集落で生活が普通に営める状況ではなくなっていたため、その撤去作業に駆り出されたのだが、まだ重機が入れないところが多くほぼ手作業で1日数百名を動員しても気の遠くなるようなものだった。
場所によってはすでに腐乱が進んだところもあり、そんな場所では防塵マスクとゴーグル、ダブル手袋をはめていても連続で作業するのが辛く、ゴミを跳ね上げると今まで見たこともない数のウジ虫が大量発生していて、あまりの光景にその場で嘔吐する人も出たり、また鉄板入りのゴム長でなかったためとげを踏みぬき、破傷風の危険があるため直ちに病院に運ばれていった人もいた。
加えて暑い日だったため、完全防備の作業服を着ていると滝のように汗が流れ、汗の水たまりができるような状態だった(傷をつけると破傷風の危険があるため基本は肌を出さない方が良い)。
ちなみに当時は当然三陸沿いに宿泊できる場所はないので岩手県北上市内のビジネスホテルに宿泊し、毎日早朝に遠野に移動。そこからボランティアバスで現地に向かった。作業に必要な道具一式は川口にあったワークマンで揃えた。ボランティア保険は飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターで加入した。
震災2カ月後の釜石
翌日は釜石を経由して大槌町に行った。途中バスで通った釜石の町もかなり破壊されていた。大槌では個人宅の泥を手分けして掻き出す作業をおこなった。担当した住宅街は海から数キロ離れているにもかかわらず2階まで津波が押し寄せたそうだ。
作業中は家の方にお菓子やジュースを出してもらったりした。貴重なものをいただくわけにはと恐縮したが、この地区は比較的配給がしっかり届くらしくこういうものは心配ないとのこと。但しこの当時は暖かく調理された食事はやはり貴重だったようだ。こちらに任せきりではなく、家の方たちも常に忙しく働いていて、こちらも色々と気遣ってくれた。どちらが助けられているのかわからないほどだった。
そして2012年。
本当は今回も現地でボランティアをと考えボランティア保険も更新して出かけたが、あいにくGWに三陸を豪雨が襲いとてもボランティアが出来る状態ではなかったので観光だけにした。
震災1年2か月後の大槌町
道路は陥没し、豪雨、そして震災後の地盤沈下の影響であちこち広範囲に浸水していた。訪れる予定だった大槌復興食堂の前の道路も冠水しお店も休業。少しヒヤヒヤしながら水たまりの中をクルマで走った。
釜石の川も増水していた。。
釜石の町は瓦礫の撤去は進んだが、荒れたままの建物も。。
1年2カ月後の陸前高田。
気仙沼もまだこんな状態。
南三陸の防災庁舎。
周辺もほぼ更地になっている。
高台の学校から。どこまで津波が押し寄せたのかがよくわかる。
長かったような短かったような1年だったが、首都圏の人からの記憶が薄れていっても、東北にとって復興はまだまだこれからなんだということは強く感じた。
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